* my bird sanctuaryにいらっしゃいませんか *

サンクチュアリを探して: 3.サンクチュアリは何処に (3/4)】

 次は、中西悟堂氏の次の言葉だ。「サンクチュアリだなんて、何でまたそんなもの創りたいの?」「何の意味があるの?」「もっと普通にしたら?」という質問は、必ず発せられる。それに対して、これまでのわたしは「生き方だから」と答え、こんな人間も受け容れてください、と胸の内でお願いするしかなかったが、想いをもっと積極的に表現するなら、中西悟堂氏のこのような考えは、21世紀の今、特に必要だと考えている。

私が鳥を飼っているのには、二つの目的がある。一つは後に何らかの形(記録)となってあらわれるもの、もう一つは何らの形をも取らないものである。換言すれば、前者は野生の鳥の生活の諸相を知る便宜上、飼育をして、その習性を手近に知ろうとする鳥類研究の過程であり、後者の目的は鳥と遊ぶことそれ自体のなかに私の未来の夢を預けることである。後者については、一応私の生活にさかのぼって語らなければならない。私はかつて、しばらくの間であったが、木食(もくじき)に近い生活をしていたことがある。朝食は武蔵野の松林で松の新芽を食べ、夕食には蕎麦(そば)粉を食べ、一日この二食だけで暮らしていたのだが、ひとがくれれば蜂蜜や胡桃なども食べたし、時には自分からほんの少しのパンや林檎を買い求めて食べた。そして一ヶ月の生活費は一円で足り、大部分の生活はただ散歩と思索と気ままな執筆とに費やされていた。こんな極端な経済生活で足りている関係から、私は心にもない生活のためのかせぎから隔絶され、また十分におのれの純粋な生活を保持しえていた。散歩は毎朝、つまり日の出前に松林に行って松の芽を食い、流れの水を飲んだあと、時間にして数時間、距離にして数マイルに及んでいた。が、ある朝、ふと反省が私の心をおそった。というのは、私の早暁の散歩の時間に、農夫はすでに畑で働き、工場の笛は鳴り、牛乳配達の車がきしり、新聞配達夫がいそがしく走り、要するに人々が労役の生活に入るのに、私だけがぶらぶらとさまよっていていいのか、ということであった。数日間、この自責の気持ちはつづいた。が、ふと私の目に映じたのは歌う鳥と、路傍に開く花とであった。もしも人間一般の社会生活を軌道として考えたら、私は怠け者ということになる。が、価値の標準をかえて、鳥や花に一つの規範を見出したなら、何を苦しんでみずから責めることがあろう。しかも、私は世界の意味を考えながら、一つ一つのばらばらなものを結びつけて、そこに人間の心情の生活を生かそうとくわだてることに私の思索を費やしている。これでいいではないかと、私は自問自答するのであった。こうした生活形式は、私に遊びの価値を知らせた。換言すれば、私の思考と行為の究極の思想のなかには、ソロオが「散歩はあらゆる事業のうちで最も高貴な事業である」と言っているのと意味を同じくする、高貴な遊びの生活があるだけであった。こうした考え方はその後いろいろに成長し、変化したが、しかし我々の生活のなかに功利を離れた遊びの生活、閑雅な生活があってもいいという考えは今もなくならない。けだし私の言う遊びの意味は怠惰とは違う。われわれは絶えず子孫に遺(のこ)すべき文化の遺産を積んでゆかなくてはならない。学ぶことにより経験により、発見することによって、われわれは世界認識の旅をしなければならぬ。
 要するに小鳥との生活は、私にその認識の小さな見本の一つを暗示してくれている。そしてその考えを生かしてゆくためには、山野で小鳥の生活に触れてそれを知ってゆくこと、あるいは室内で放飼してその習性を見、かつ親しむことが捷径(ちかみち)なのだ。私は籠の飼育には賛成しない。籠にいては、小鳥たちは何らの生活表情を示さないであろう。が、もしこれを室内に放飼し、もしくは馴致して戸外に放飼するなら、彼らはある程度まではその習性の片鱗を見せる。しかも小鳥に本来あるように見える警戒性が、本来のものでなかったことは、人間同士のいたましい警戒心の戒めともなる。ただし、これは私一人の体験の過程にすぎない。大いに飛躍するようだが、もしも一国の国民全体が、その国の野鳥を自然のままに愛し、やがてはその国の鳥たちが、決して人を怖れることも警戒することもなく、たがいに睦み親しむことができたとしたら、その国はさながら平和の国ともなろう。こんな考え方は、近代の功利生活や機械文明のなかでは時代錯誤の屁理屈かもしれない。が、私の場合ではあまりにも功利や機械のとりことなった近代文明への優しい一つの抗議なのである。私一人の体験しえたことを、一つの国が、世界が、成しとげえぬはずはないのである。ともかくも、私の放飼実験の底には、こんな夢があることを、このへんにさしはさんで、さて別の話に移ってゆこう。

"癒し"とか"スローライフ"といった言葉が突出してきたのと同様に、小鳥から学び、小鳥と親しみ睦み、人と小鳥が遊ぶといった世界観(もちろん、極端に人間中心的なペット感覚ではなく、きちんと小鳥から発せられた声を受け止めて、対等に付き合うといった内容でのもの)がもしも多くの人に受け入れられ、実践されたら ―― 本当に素晴らしいと感じる。そしてきっと、今の世の中の暗い部分が抜本的に変わる!

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