* my bird sanctuaryにいらっしゃいませんか *

【サンクチュアリを探して: 3.サンクチュアリは何処に (2/4)】

  すでに書いたように、my bird sanctuaryについては未だ模索している状態だ。土地探しに関しては、ブログにて逐次状況報告をしていきたい。
  「鳥のため聖地」としての意味についても、同様に模索中だが、ここで現在気にかかる言葉として、20世紀最大の哲人・聖人といわれる J.クリシュナムルティのもの、《思想》のところで挙げた中西悟堂氏のもの、そして一遍の詩の引用によって、まだはっきりと書くことのできない、「聖地」としてのmy bird sanctuaryについての思いと祈りを記しておきたい。

まず、クリシュナムルティの言葉だ。彼は多くの美しい自然描写を残しているが、その膨大な著作のなかから人と鳥の関わりについてふれた言葉を見つけた。子どもたちを前にして、子どもたちの質問に答えるという場面で生まれた言葉だ。普段は難解な彼の言葉が、美しさはそのままに、とても分かりやすく伝わってくる。

一人の子どもの「なぜ鳥は、私が近づくと飛び去ってしまうのでしょう」という質問に答えて、こう彼は語る。

もしも君が近づいたときに、鳥が飛び去らなかったなら、どんなにいいでしょう! もしも彼らに触れて、仲良くできたなら、どんなにすてきでしょう。しかし、私たち人間は残酷ですね。私たちは、鳥を殺したり、苦しめたり、網で捕らえてカゴに入れたりします。カゴの中のすてきなオウムのことを考えてもごらんなさい! 毎晩、オウムは連れを呼び、他の鳥たちが広い空を飛んでいるのを見ます。私たちがこうしたことを鳥にするとき、鳥に近づいても、彼らが怯えないだろうと考えますか。しかし、閑静な所で静かに座り、まったくじっとして、本当に穏やかであるならば、鳥たちが来てくれることにすぐに気づくでしょう。鳥たちはすぐ側を舞い、彼らの機敏な動きや繊細な爪、羽毛(はね)のとてつもない強さと美しさを観察できるでしょう。しかし、そうするためには無量の根気を持たなくてはなりません。それは、たいへんな愛を持たなくてはならないということです。そしてまた、恐怖があってはなりません。動物は私たちの恐怖を察知するようです。すると今度は、彼らも怯えて、逃げ去ります。それで、自分自身を理解することがとても重要であるわけです。

樹の下でじっと静かに座ってごらん。けれど、ほんの二、三分間だけではいけません。なぜなら、そんなに短い時間では、鳥は君に慣れないだろうからです。毎日、同じ樹の下に行って、座りなさい。すぐ君は、まわりのあらゆるものが生きていることに気づいてゆくでしょう。草の葉が日射しにきらめいているのや、小鳥の絶えまない活動や、ヘビのとてつもない艶(つや)や、凧が空高く上がり、そでを動かすこともなく、風を楽しんでいるのが見えるでしょう。しかし、このすべてを見て、その喜びを感じるには、内面に本当の静けさを持たなくてはなりません。

(J. クリシュナムルティ 『子供たちとの対話』 平河出版社 1992)

人間の思い込みや感情移入、感情的な反応を超えた、鳥との真なる対話があるとしたら、上のクリシュナムルティの言葉は、それを示唆しているような気がする。ここには、「調和」とか「一体感」が現実にどういうことなのかについての、ヒントもあるように思う。

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