* my bird sanctuaryにいらっしゃいませんか *

【サンクチュアリを探して: 3.サンクチュアリは何処に (1/4)】

my bird sanctuaryについて書いてきたが、一番最初に投げた問いかけを、ここでもう一度、振り返ってみたい。

1.「バード・サンクチュアリ」は、直訳すれば"鳥の聖地"ということになる。なぜ、「野鳥保護区」といった用語ではなく、やや宗教的な意味合いを持つ「サンクチュアリ=聖地」という用語が用いられるのか。

2.ウトナイ湖サンクチュアリをはじめとする各地の「サンクチュアリ」と呼ばれる土地は、何ヘクタールにも及ぶ広さがあり、大きな保護団体や企業でなければ購入・運営はできない。また、多くの場合、敷地内はヒトの立ち入り禁止区域などがあり、専門のレンジャーによって運営され、ヒトが立ち入れる区域や特別の期間を設けて一般の人々の観察や環境教育・自然教育がなされているイメージがある。そうすると、個人で立ち上げて上のような宣言をした土地を、わたしは「サンクチュアリ」と呼んでいいのだろうか。

3.そもそも「サンクチュアリ」と空間を名づけることによって、人々は何を希求してきたのか?

これらの問いのうち、2に関しては、《サンクチュアリの思想》の「2.“ミニサンクチュアリ”をつくろう」で捉えたように、どんなに小さな場所でも個人が「ミニサンクチュアリ」としてのバードサンクチュアリを創立するのは重要だと分かった。だが、1と3については、まだ十分な答えを出すまで行っていないように思う。現行で「サンクチュアリ」と呼ばれている地域がどんなところなのかについてはある程度の調べがついたが、鳥類保護の空間を何故「聖地」と呼ぶのか。「聖地」としてのサンクチュアリはどのようなものとなるのか。《サンクチュアリの思想》でみてきたことから、ある程度は推察できるが、その答は更に深めていく必要がある気がする。何故「聖地」という言葉で呼ばれるかについては、"自然との共生""野鳥の積極的な保護の姿勢""自然に対する人々の気づきや意識の変化"といった言葉を超えた何かが関わっているように感じる。

前述の【サンクチュアリを探して】においても、これを明確にしないまま、my bird sanctuaryの探求について書いてきた。幾つかの側面からの自然観や、ヨーガや氣功の仲間たちとの修練から多くの教えを受けたこと、内面や精神性を高める必要を感じたことなどにふれたが、「光を広げる」といった表現など、かなり曖昧、あるいは"怪しげ"と受けとられるかもしれない書き方であったかもしれない。
 my bird sanctuary は、「聞こえない声を聴く」ための異種間コミュニケーション研究のフィールドともなる。ひとつの学問のフィールドになるわけだから、そういった面では曖昧な書き方や"怪しげな"書き方は避けたい。また、サンクチュアリとは、人間を含む生きものたちの命のあり方や、自然と人間との関係、人間の精神性や内面、他者関係と大いに関わっていると思われるが、いわゆる説教臭い、道徳臭いものとはきちんと区別・分離しておく必要があると思う。サンクチュアリの意味は、東西の生命観や自然観、人間中心的な見方を越えた思想の可能性を検証した上で、秩序立てて伝えられるようになりたい。
 一方で、サンクチュアリの意味は ―― わたし個人にとって ―― 学問的な言説の問題だけではなく、ひとつひとつの実践を通して露わになっていくものであるという気がしている。それは、“机上の空論”でもなく、理想像を言葉に表しただけのものでもなく、現実と関わる“生き方として”、少なくとも生きるプロセスにおいて実際に希求していく何ものかとして、響かせていくことのできるもの ―― そう、このローカルな場所の日常的なところから気付き、希求し、感じていくものに他ならないという気がする。

そんなわけで、この「聖地」の"聖性"の部分については、まだ勉強不足の上、現実にも土地探しを中心に活動中のままなので、最終的な答えは無い。上で書いたような「自然観」「生命観」の多様なあり方や、“自然との共生”“ことりや樹木との対話や調和”ということを試行錯誤ながら実践しつつ、学びつつ、先に行きたい。予感だけはある ―― 耳を澄まし、生命や自然の本来の姿、その源に立ち返ることになるのではないかと。そのためにわたしは、今もっている思考や概念で規定しているところをもっともっと捨て去っていかなければならないかもしれないと。そこで聴こえ、響き合うものがあるのではないかと。”All as One”の世界に何らかの形で近付くのではないかと。人として今、自分がどうしたいかも進むほどに観えてくるのではないかと。

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