* 「聞き耳頭巾」を持つ人々:ジム・ノルマン *

【コミュニケーションの原則・手順・技法4/4】

4.コミュニケーションの原理

  最後に、ノルマンが達成した異種間コミュニケーションにおいて、その原理と言えるものが何であるかを検討しよう。核心は、次の三点ではないだろうか。
  それは第一に、相手の動物と対等に向き合おうという真摯な意識だ。そして、それこそが他の誰もが到達していない領域まで、彼が踏み越えていけた最も素直な理由だ。動物と向き合う多くの場合、わたしたちは「このネコに分かるかな」「オウムは学習能力があるはずだから、どうやって躾ればいいかな」「あのノラは、結構賢いじゃん」などといった目で彼らを見がちである。そして相手の目前で言う。「なんだかこの子、わかってるみたいだよ」「お利口ね」「こいつしょうがない!」――こう言うとき、わたしたちは動物の意識とつながろうという以外のところに、自らの意識を向けている。わたしたちは、目の前にいる動物の姿から、人間の自分とは大きく離れた世界、生活圏、意識の領野にいることをたちどころに認めてしまう。相手が人間であってさえ、思惑や計らいを取り除いて、「他者」に対してピュアな意識を真っ直ぐに向けることは難しいのだから、人間が動物という「他者」の次元へと、突き抜けていこうとすることは想像を超えている。それが起こるためには、ノルマンのように膨大な時間、労力をかけ、しかも自らの精神のあり方を常に誠実に、繊細に、柔軟に保っていなければならない。
 二番目に、“All as One”の精神、自らを調和・一体感の中に身を置くということを挙げたい。異種間音楽は、動物と人が互いにハーモニーやリズム、感動を共有させて、初めて実現した。ノルマンがシャーマンのやり方に傾倒しつつ、自分流にアレンジしていくのも、<トランス・アプローチ>を築きあげたのも、動物の意識の中に自らの意識を溶け込ませようという努力に他ならない。それは、個人的な感情を動物に注ぐということ以上のものだ。ノルマンはそこに、「期せずして自然界の根本的な真理を見いだし」たという。科学的思考からは離れるが、それは多くの修行者、スピリチュアリティや聖なるものを探究する人々が到達していくと言われる世界観や生命観とつながっている。音楽家でなく、ダンサーや氣巧を使う人だったらどうなのか、とノルマンは尋ねている(注11) 。
 三番目に、やはり、コミュニケーションの現場において、当事者(聞き手、語り手)としてコミュニケーションに集中し、誠実で、繊細で、柔軟な対応をしていくことを挙げたい。これは、異種間コミュニケーションに限ったことではなく、コミュニケーション全般で言えることである。しかし、異種間コミュニケーションは、いちばん最初の、“そもそもどうやったらつながれるのか”から、全くのとっかかり無しに、始めなければならない。さらに、動物の信頼を勝ち得なければ、ノルマン流の対話は出来ない。そして、対話が少しうまく行ったからといって、途中で、あるいは次の時点で、相手を裏切ってはならない。言うまでもないが、対話は、異種間コミュニケーターとしての成功や栄誉という点にあるのではないし、動物を手なずけたり、騙したりするためにあるのではない。真の対話のために、自らのあり方を常に律していなければならないのだ。
 現在の、動物と人との関係やわたしたちの思考形態について振り替えると、この原理に従うことの難しさを痛感する。だが、一方で、無垢で幸福で素直な子どもが、シンプルに世界に向き合ったとき、何の努力も要せずに実現できることのような気がする。
 こうした原理に立脚したコミュニケーションが始まったなら、お互いの意識が結ばれ、時間・空間が共有され、「お互いの魂の創造的なプロセスに心を開いて参加し」始めるとノルマンは考える。そこに、次に述べる動物と人との「コミュニティー」が誕生すると言う。


注11:全くの余談ですが、管理人は20年以上ヨガをやっています。瞑想をしていると、手のひらに小露鈴(ちろりん: 文鳥。本サイト「hearing the unheared voices −助け手の小鳥たち−参照)がうずくまります。そのときの小露鈴は、普段のようにちょこまかするのでも、眠っているのでもありません。当事者としては“一緒に瞑想している”“一体感の中にいる”といった感じです。
 こういうことは、ヨガ仲間、氣巧仲間にはよく通じます。動物好きの人たちには、よく起こっていることだと思います。ただ、研究として、これをどう見つめていくかは、今後の課題です(研究の場におけるこの問題の扱いに関しては、“動物たちにとっての哲学 [総合自由討論]”. 『ヒトと動物の関係学会』 Vol. 7, No.1, 2003. p. 56-58. 参照)。

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