* 「聞き耳頭巾」を持つ人々:ジム・ノルマン *

【ノルマンとオルカのコミュニケーション(2/3)】

 もし、"人間の音楽"をオルカが「学習した」のであれば、両者の創り出したものを、人間にとっての音楽の概念から推しはかることもできるだろう。だ
が、ここで生まれたものは、人間のものでもなく、オルカのものでもない、新しい領域の言葉なのだ。ノルマンはそれを、「異種間音楽」とみなした。そして、そのハーモニーは、コミュニケーションなのだ。
 しかし、ここで生まれたコミュニケーションは、「言語」によるものではな
い。人間が決めた言語によってもたらされたことを超えた”創造”が起こっていた。

 音楽が最も深遠な人間の言葉だったとしても、言語ではない。言語とは、英語、日本語、スワヒリ語、そのほか先にものぼるさまざまな言語構造で、人間の意志の疎通を助けると同時に妨げてもいる。その定義には多くの学問的きまりがある。それにくらべて音楽は簡単だ。聴く人が決めればいい。言語学、行動学、教育学、心理学、などの対立する学派による厄介な問題もない。実際こういった学派の人たちは、「動物」との言語によるコミュニケーションに成功したなどと耳にしようものなら、いつだって10ラウンド戦い抜けるだけの用意はできているのだ。アポリジニ語では「動物」は何だろう? オルカ語では、「Dナチュラルの音符」を何というのだろう?
 あの瞬間、誰がどう定義しているかなどまったく関心がなかった。そんなことよりEの弦をピンと張り、オルカのオブリガートを執拗に繰り返し弾くことが肝心だ。だが、今度はレではなくドのシャープにした。それに応えたセンターステージのオルカは、すぐにドのシャープでフレーズを繰り返す。半音下がった以外はまったく同じメロディー。その時から、よく知られたドのシャープの半音階を中心に、オルカとわたしのおしゃべりが始まる。このおしゃべりは、大きな変化もなく何と一時間以上も続いた。そのころ、オルカと人間のやりとりを聴きに海岸のキャンプに集まった八人の人たちも、この異種間コミュニケーションに魅了されていた。はじめのうちは、パターンが同じで明らかにやりとりとわかるたびに、聴衆たちは何かコメントを加える必要があると感じたようだ。オルカもわたしもメロディーやリズムをあらかじめ決めていたわけではないので、これには戸惑った。わたしたちのつながりは感覚的、霊的であり、知的パターンを超越した、音楽の本来の特性によって明らかになるものなのだ。

    (『イルカの夢時間』. 吉村則子, 西田美緒子訳. p. 215-216より抜粋)

  注目して欲しい。異種間コミュニケーションを達成するため、ノルマンは対話の形式やきまりを模索する ―― そして、オルカもまた、模索しているらしい。

 オルカとギターを弾くわたしは、対話という形式のおしゃべりをすることに暗黙の了解をみた。それぞれ、相手の音が終わるまで待ってから自分のを始めるというきまりだ。この形式が成り立つには、どちらも相手の始めと終わりがはっきりとわからなければならない。たまに相手が終わらないうちに間違って始めてしまうことがあったが、ほとんどは対話の形式で進んだ。音楽の交換は単純な呼びかけと応えには終わらない。九官鳥やオウムが返事をするのとは、かたちも精神もまったく違っていたのだ。いつも思いやりと感性に溢れていた。一晩という限りある時間の中で音楽の展開をめざす意識があったのだ。わたしが三つの音を弾くと、オルカは同じフレーズを繰り返したうえで最後に新しい(p.217)音を二つ三つつけ加えた。オルカのフレーズを繰り返そうとしてわたしが間違えた時などは、もう一度同じフレーズを繰り返してくれた。しかも二度目は半分の速さで、ゆっくりとだ。
    (『イルカの夢時間』. 吉村則子, 西田美緒子訳. p. 216-217より抜粋)

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