* 「聞き耳頭巾」を持つ人々:ジム・ノルマン *

【ノルマンとオルカのコミュニケーション(3/3)】

 さて、ノルマンはこのような演奏をする上で、どんな意識を持っていたのだろうか? それは言語実験をする研究者が、「彼ら(動物)は話せる
か?」「能力があるか?」をテストするために、動物を実験状況下において<刺激>として質問の言葉を投げ、<反応>を待つときの、実験者当人の意識とは全く違っていた。ノルマンは、正真正銘、コミュニケーションをとろうとした ―― つまりその意識は、コミュニケーションをとること、コミュニケーションを取るための突破口を開くことに向けられていた(注2) 。実験者や観察者として上から見おろして、動物がどこまでやりおおせるかを測ろうというのではなく、コミュニケーションの当事者として、動物を相手として、真剣勝負で向きあったのだ。
 ほんの少しでも、この「真剣勝負」 ―― コミュニケーションの当事者として、対等の相手に向かうこと ―― から逸れたとき、彼もまた、失敗をしてしまうのだ。

 ところが二回目、今度はメロディーもリズムもひどく間違えながら曲全体をとおしで演奏した。オルカは同じように歌ったが、まったく元気がない。オルカの気持ちを代弁することは不可能だ。が、わたしにはよくわかった。この二節目はもっと複雑でわかりにくいものにしようという、邪(よこしま)な気持ちが浮かんだのだ。だが本当はもっと単純で、押しつけではない、リラックスした音楽が必要だった。わたしの指は、頭で考えたことに従うか、心の必要としている方向に従うか、大事な判断を誤った。心と心のつながりで始まったこの音楽の創造だったのに、突然わけもなくわたしの頭の中にけばけばしいネオンサインがまたたき出したのだ。これまで予想もしなかったような異種間コミュニケーションにしてやろう、という野心のネオンが。フリー・ジャズとレゲエだった音楽が、いつのまにか知的変革、いや「歴史」にさえなりかかっていたのだ。熱唱するソリストのために強烈なバックビートを演奏するリズム・ギタリストだったのに、次の瞬間、人間と動物のコミュニケーションの偉大な成功例を記録しようとする人間になりかわっていた。この気持ちの変化の中で音楽は崩壊した。人間性の最も基本的なレベルで、人間であるとはどういうことなのか、わたしの先入観に挑戦状がつきつけられたの
だ。この異種間のきずなをもっと学ぶには、自分がしていることより、自分であることに集中する力が必要だ。子どものように無心にならなければ。
 やっぱり、わたしにはオルカの気持ちを代弁することはできない。

    (『イルカの夢時間』. 吉村則子, 西田美緒子訳. p.217-218より抜粋)

 これはすごい。後に彼のコミュニケーションの秘訣を挙げるが、こういう意識、いや精神のあり方が、彼のコミュニケーションの真髄だと言っていい。これは、あまりにも当たり前のことである。だが、コミュニケーションの対象が「動物」であることを認めるやいなや、わたしたちは<当事者 対 当事者>のあり方からあまりにも簡単に、意識を逸らせてしまっている。
 この動物に、人間の発する情報やメッセージが、あるいは人間の精神が創り出すアートの意味が、理解できるのか ―― それは、知的な関心を集める議題であり、現在の科学で激烈な論争を呼ぶ議題である。関心を呼ぶために、あるいは論争に決定的証拠を突きつけるために、コミュニケーションの成功例を提出することも、意味があろう(上の引用で、ノルマンもそこに陥りそうになっている)。しかしながら、こうしたことに意識を向けることと、実際にコミュニケーションをすることとは決定的に違う。仮にコミュニケーションが成立するとしたら、前者の意識はむしろ、コミュニケーションの妨げとなる。ここでは触れるだけにとどめるが、日常言語は意味論的分析に手なずけて、話し手・聞き手の「知能」は意味解読やその原理の取得に足るだけのものかを問うためにあるのではない。日常言語を言語ゲームとして捉える視野、成員間の暗黙の契約に基づいていると見なす視野に立てば
(注3) 、当事者としての自分が相手と何らかの相互作用を実践していくことができるかどうかだけが、意識にのぼる(注4) 。

注2:こういう意識こそが、そしてこういう意識のみが、"真面目な"コミュニケーションをする者の意識となろう。人間同士のコミュニケーションにあって、もしもこういう意識を持って話さなかったら、その当事者は相手を"馬鹿にしている"ことになろう。

注3:言語の背後に「意味(あるいは情報、メッセージ)」とその処理能力を前提とするところから、言語を扱う立場に対して、言語実践がいかに成立するか、いかにして達成されているかを問題とする立場として、たとえば後期ヴィトゲンシュタインの立場や、ソシュールのラングの考え方を参照して欲しい。


注4:上のノルマンの文章で、彼がコミュニケーションの"形式"をうち立て、オルカと相互に成立させ得る「きまり」に重点を置いていたことから、彼のコミュニケーション観がどのようなものだったかを、うかがい知ることができる。


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