* 「聞き耳頭巾」を持つ人々:ジム・ノルマン *

【<夢時間>を生きる(1/2)】

  このようなノルマンのコミュニケーションは、異種間コミュニケーションの研究者たちが採択している、動物に対する言語実験の立場とは違ってい
る。通常、音楽という形式をとらず、言語を手段とするメッセージのやりとりとしてコミュニケーションを捉える場合、「はたして動物はわれわれ人間と、会話で意思の疎通を図る自覚と知能を持っているのだろうかという基本的な疑問」に必ずぶつかってしまうからだ。そして、現在この答えをめぐって、動物行動学や言語学、心理学、人類学などで多くの論争が起きている
(注5) 。
  こうした科学研究に対して、ノルマンの立場は単純明快だ。

 型にはまったこれら異種間コミュニケーションの実験には重大な欠陥がある。「動物に人間とのコミュニケーションを教え込めるだろうか?」という問いかけから出発している点だ。この場合、動物はあくまでも対象にすぎない。捕らえられて「人間と同じ方法」で情報伝達を学ぶよう入念にプログラムされてしまう。この段階ですでに動物が自発的に意思の疎通を図ろうとする可能性が摘み取られてしまっているのだ。チンパンジーが、人間と同じプロセスをたどって「ボク ノミタイ」と言えるようになれば、確かにわれわれはその過程を発見することはできるだろう。だがチンパンジーが素朴な要求ができるようになったとしても、チンパンジーやイルカ等の動物が、意外にも人間らしく行動できるのだとわかるにすぎない。本当の意味でコミュニケーションを考えるなら、お互いを尊重し合う関係がまず基本である。当事者双方が習得体験の方向付けやテーマを指示する際には、対等な力を持ち、開かれた対話として進めなければならない。これはわれわれと動物の関係を考えなおすのに不可欠だ。環境にあるがままの動物を受け入れること、ある意味でこれこそ根本的な視点であり、倫理的に公平(ホリスティック)であると言えよう。こうして、初めて人は動物が本来もっている独自の知恵を、ほんの少し理解しはじめるのかもしれない。だがもちろん、現代の人間と動物の関係を考えると、きわめて難しい。第一に、捕らえられて実験台になっている動物をすべて自由の身にし、せめて意のままに動きまわれる空間を与えなければならない。これはもうすでに実行されはじめている。ペニー・パターソンは、ココと互いに対等に影響しあうために小さな農場を見つけた。二十五年間、水槽でイルカの研究をしていたジョン・リリーは、自由に泳いでいるイルカと情報交換する方法を模索した。
         (『イルカの夢時間』. 吉村則子, 西田美緒子訳. p.30-31より抜粋)

  コミュニケーションの当事者として、相手と対等の関係を結ぶ。それが、イルカであれ、オルカであれ、七面鳥であれ。だが、相手が人間でなく、異種の生きものである場合、誰もがノルマンのようにできるのか? ヒトと動物の関係、ヒトと生きものとの関係を捉え直し、対等の関係を結ぶことは、今の人間にとって、一筋縄には行かないことだ。それでも現在、幾人かの人が、限られた範囲ではあるが、これを模索し始めている。21世紀になって、もっと多くのことが起こりそうだ。


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