* 「聞き耳頭巾」を持つ人々:ジム・ノルマン *

【「標本」より「共感」(1/2)】

  シャーマニズム、トーテミズムの復興? ――これはあまりにも、“怪しげな”話なのだろうか。
  子ども時代のノルマンは、動物をとても身近に感じていた。鳥の声を楽しいお喋りと聴き、そこに人が喋っていることと違いがあるはずはなく、ただ、それは人にとっては秘密の暗号のようなものだと捉えていた。青年となって、動物を人と同じように捉えることは、動物学者や行動主義者にとって「擬人化」という大罪なのだと知った。動物と共に働く仕事に一生を捧げたくはあったが、動物に関わる仕事をしている人々の研究は、彼の志とはほど遠かった。動物を「機械」と捉えて、実験室で「標本」として残酷に扱い、人間の発展だけのための仕事をすること ――そうした動物の扱いができるには、ノルマンはあまりにも「心の底から動物に対して尊敬の念を抱いていた」のだ。
  1983年春、ノルマンは、テレビ番組の企画として、ホエザルとの「異種間音楽」を制作するために、パナマのジャングルへと向かった。サルの観察を続けてきた動物学者は、サルの脳の小ささ、それ故の知能の低さを挙げて、この試みを否定した。しかし、ノルマンの奏でる尺八の調べに乗って、突然、サルの家族は「親しみのこもった声で吠え返したのだ」。

・・・少しずつ雰囲気が変化してくる。尺八の旋律の間を一匹のサルの声が埋めると、他のサルは黙って耳を傾ける。一吠に一旋律、二つの旋律には二声吠えるといった具合だ。会話の前兆とも言えるこの基本的な対話が夕闇迫るまでほぼ一時間続いた。次の日、サルは朝も夕も尺八に合わせて吠えはしなかったが、日暮れ間近に一族郎党が一列縦隊で高い木の上から近くの枝に演奏ぶりを見に降りて来た。三メートルくらいの高さの枝の上や、わたしの真っ正面に座り込んで、熱心な聴衆よろしく尺八の指使いをじっくり眺める。そしてまた夜の帳とともに演奏会はおひらきとなった。
    (『イルカの夢時間』. 吉村則子, 西田美緒子訳. p.142より)

  ノルマンは、この異種間音楽について、それを否定した動物学者と論議する。その動物学者は、そうした光景をかつて観察したことはなかった。彼女はそれを、ノルマンがサルと「特別にうまが合うから」であり、サルが「音楽に対して並々ならぬ好奇心を示したのだろう」と結論づけた。しかしノルマンは、「基本的な音楽技術を持ったサル好きの人なら、誰でも同じ結果になっただろう」と推測する。
  自然の中に人間が入っていけば、どんな動物もはっきりした態度で反応してくれるはずだ。だから「客観的」で精確な観察者などいるはずがない ――動物との交流は、人間が当事者として参加してこそ成立するので、この動物学者が考えるような科学の枠組みにしがみついていては起こり得ない、とノルマンは感じている。そして、サル自身が、ノルマンを「友好的な人間だと『判断して』、高い木の上から降りてきてくれたので」あって、サルにそのような人間並みの能力を認めない科学者に対しては、サルはそのような行動に出ない、とノルマンは考える。
  ここから、ノルマンは、異種間コミュニケーションを探究する際の、科学における二通りの考え方を挙げる。一番目は、彼が「標本学派」と呼ぶ科学の流れだ。この学派は、動物たちを、場合によっては自然界全体を研究対象の「標本」として観察する。その大前提として、人類が他の動物とかけはなれ、比類なきものとして存在し、進化論の頂点に立つものであるという考えがある。(動物は機械とは言えないが、感情を持った人間の仲間でもない)。動物という対象から離れた客観的な観察をし、「知識追究」の名のもとに、研究対象の標本となる生物を集める。そこでは、動物は実験対象にされ、殺され、剥製にされて捨てられる。知識の追究が全てに優先するからだ。
  二番目の学問の流れとして、ノルマンは、“はるかに古い伝統的な自然学派”を挙げる。この学派は、今見直されつつある考え方 ――シャーマンのやり方―― に立っている(注7)。標本学派が自然を小さな構成要素に分解してしまうのに対して、シャーマンは自然を全体としてとらえ、人類はその一構成要素にか過ぎないと見なす。また、標本学派は情報を是が非でも得るために自然を搾取するが、シャーマンは、全ての動物が権利や尊厳を持ち、しかも人類の運命を巧みに繰る独自の力を各々が備えているという世界観を持っている。シャーマンだけが、その全てを同等に扱う術を心得ている。人間と動物は、同じ霊魂が違う形をとって現れたにすぎない。

注7:ノルマンは、ジョウン・ハリファックスの著書、『シャーマン、傷ついた治療師』を引用し、その伝統的な考えの中で、動物が次のように捉えられていることを示している。

  宇宙は力強く不確かなものと考えられているが、そこに存在するありとあらゆるもの  は人格化されている。岩、植物、木々、水域、二本足や四本足の動物、泳いだり這  ったりする動物も、すべて生命があり個性を持っているのだ。


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