* my bird sanctuaryにいらっしゃいませんか *

【サンクチュアリを探して(6/7)】

 そうこうするうち、21世紀初頭の世界情勢、社会情勢の流れを目の当たりにするような身近な現実の変化に、わたしの気持ちはぎりぎりまで余裕がなくなっていった。そうした変化の根底にあると思われる、人々の意識の変化、学問の場・教育・研究の場としての仕事場の変化は、戸惑いの大きいものだった。21世紀は環境の時代だとか、瞑想の時代だとか、人間の精神性の復活の時代だとか言われ、わたしもそうでなければと感じる。しかし、経済主義、物質主義、技術先導型の合理化や効率化、競争主義と保守という価値のバランスに根ざしているかのように感じられる変化の波は、今の人間のこころの総体にある震源から立て続けに発されているような気がした。わたしは、こころの奥で激しく「no(ノー)!」と叫んでいる自分を見出した。
 さらに、この時期、つくばにおいては、つくばエクスプレス開通に伴い、駅周辺の駐車場、マンション、駅ビルやショッピングモール開発で、あっと言う間に大きな木も、木立も、茂みも、切られたりなぎ倒されたりしていった。あのエナガの群れは、茂みのコジュケイは、ヒバリが舞いツグミが一冬過ごした野原は、モズが、ジョウビタキが、いつも止まっていた木は ―― とわたしは毎日おろおろし、心配し、やり場がない思いを抱いた。更地にされたところを吹きぬける砂埃が舞い、空気がどんどん汚れ、車がかつてなく渋滞をするようになった。更地はビルや駐車場となり、ショッピングモールに沢山の紙袋を抱えている親子連れの混雑を見て、人にとってもこれはいいことかしら、とさえ思った。しかし、目に入る限り、人々は、街が便利になるための電車の開通を目前にして、開催されるお祭りに集まり、気分を浮き立たせていくように見えた。不安を漏らしたとき、「あなたは、鳥だと鳥だと言うけれど、人間にとって便利になるんだからいいじゃない!」「もっと普通にしたら?!」との声を飛ばされた。わたしは、伝え方・気持ちの表現の仕方が拙かったのだろうと反省し、押し黙った。人間にとって便利になることに嫌味を言う資格はない。もともと田畑と山林があった場所に、大学と研究所が誘致され、そのために開発された場所に、それゆえ仕事があって移り住んだわたしが、さらなる開発に衝撃を受けたとしても、昔から住んでいた人からすれば、それは矛盾に映るだろうとも感じた。
 だがそれで、馴染みのエナガの群れ、コジュケイ、ヒヨドリの巣立ち雛に対する愛しさが、消えるものではない。彼らに、「ここにおいで。ここにも棲めるよ。ここならずっと大丈夫。ここなら心配ないよ」と言える場所が創りたいとこれまでよりも強く感じるようになった。そして、地球規模での自然破壊が加速化し、それによって人間以外の生きものが棲めなくなるどころか、人間さえも危機を迎えると思われる今、緑を「奪う」方向に向かう仕事ではなく、何とか地球の緑を「足していく」仕事をしたいと思った。山の反対側がブルトーザーでなぎ倒されていても、ここで「一本の苗木を植え」たいと感じた。

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