* my bird sanctuaryにいらっしゃいませんか *

【サンクチュアリを探して(7/7)】

 そんなこともあり、自然を守り(注10)、自然と共生し、小鳥が安心して暮らすような my bird sanctuary を創るという夢は、一層切実なものとなった。また、そこから鳥や樹木のこと、彼らと人間との共生や、小鳥と対話して得たことについてメッセージを発していかなければならない、と感じた。「たとえ3千坪もの土地が買えて、それが守れたとしても、(地球全体で進んでいることからすれば)たかが3千坪だけでは命は救いきれない。それをどうやって拡げていくかだよ」という氣功の先生の言葉が胸に残った。どうやって拡げていくか ―― 現代の世界において、人々の意識が変革しない限り、3千坪を拡げていくことはできない。逆に言えば、人一人一人が命の輝き、命と命のつながり、山や海、森林、平原、砂漠、そこに生息する生きものたちといった自然と、自らの“内なる自然”との絆が、かけがえの無いこと、共感しあい、共鳴しあっていることを生き生きと感じられるようになれば、きっと世界中がサンクチュアリになる。そのためには、自然と豊かに共生し、こころ豊かな生き方をすることをまず実現し、それを人々に理解してもらったり、共感してもらったり、共有していけることが大切だ。現状では、実現についても、拡げることについても、足元がおぼつかないと言ってよいほど頼りない。それでも、何か少しはできるはずで、できることからやらねば ――。上で検討した【サンクチュアリの思想】で挙げたように、場所の確保だけではなくそこに関わる人々が喜びを感じて、「光がやわらかに広がる」のでなければ、サンクチュアリではないのだ。
 このようなサンクチュアリの思想の下に'自然との共生'についてどう考えて何ができるかを考え始めたとき、しかしながら、実現については益々難しくなっていった。

注10 時に「雄大な自然を前にして、人間はちっぽけな存在であり、『守る』という言い方は傲慢だ」という考えがある。
 人間が自然を思い通りに制御できるわけではない。また、"自然との共生"という言葉を、どれだけ優しげに響かせたところで、人は人以外の全ての命に対し、不殺生・非暴力を貫き切れるわけではない。自然を愛して、自然の中で生きていく中で、人間は、たとえば明るい雑木林に生息する植物を守ろうとして、蔓延ってくる篠竹を刈らなければならないし、"望ましい"樹木を枯らす昆虫と対決しなければならない。他者の命を守りたいと想っても、何かを守ることが、事実、別の何かをいじめたり傷つけることになることは多いのだ。そのことを、S先生に師事して、樹木の伐採や草刈を体験する中で、わたしも学んだ。自然を愛しつつ、様々な状況に直面して、自然の全てを統制できるわけでも把握できるわけでもないことと向き合い(試行錯誤や失敗を繰り返しながら)、その場その場において"自然体で"自然と関わり、謙虚に生きていくことを少しずつ学びたいと思う。
 だが他方で、今のわたしは、「保護」という言葉やそれに携わろうとしている多くの人々を非難しているうちに、大事なことを失ってしまう気がしている。「守れる」なんて傲慢だと決めるならば、自然に対する人間の関わり方の全てを肯定し、たちまち現行の自然破壊や乱開発を放任する考え方、人間(中でも自分や自分の所属集団)の発展のために、好き勝手にして良いという人間中心的な考え方が、ぐんぐんはびこっていかないだろうか。利便性だけを追求したり、あるいはただ無目的なままに、コンクリート化、森林伐採、無駄な道路や建物などの建設が進むということはないだろうか。
 自然は雄大で、人間には計り知れず、制御できるものではないことは、自然災害を見れば痛切にわかる。人間を、自然から沢山の恩恵を受けて生きる生物であるとも感じる。「保護」――自然を制御できるという考え方に抵抗があるのは分かる。でも、道端の野の花を見つけた、ちいさな女の子が、誰にも踏みつけられないように「守りたい」と感ずるそのこころで、「守りたい」と感ずることは大切なのではないだろうか。

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